チレボンの街に入ると、車はホテルへ向かって走り始めるが、心は今でも、通い慣れた「ガン・ビドゥリ」(ビドゥリ通り)へと向かう。
「ガン」(Gang=路地)と言うだけあって、大通りから見ると、ちょっと心細いぐらいの細い道。入口には屋根付きの門がある。その門をくぐって少し走ると、右手に「スタジオ・パチェ」が現れる。白い柵があり、前庭にあるパチェ(ヤエヤマアオキ)の木、マンゴーの木が前の道路にまで枝葉を広げている。
車の着く音、または私の連絡で、閉ざされていた玄関の戸が開き、楽そうなワンピースに手ぬぐいを首にかけた姿の賀集由美子さんが「あ、どーも、どーも」と言いながら出て来るのが常だった。「(道)混んでました? 朝ご飯にナシ・ジャンブラン食べる? えーっとね、買ってある。朝、買って来たの」などと会話しながら、家の中に入る。
玄関を入ってすぐが「ショールーム」で、スタジオ・パチェの商品を売っていた。壁を隔てた奥が仕事スペース、ダイニング、台所と、賀集さんの生活空間となる。バティックを掛けたパーティションがあちこちに置かれている。
ダイニングテーブルにはバティックが掛けられ、壁には古い写真が何枚か。コマール家が所有していて日本軍に接収されたという「ホテル・アシア」の白黒写真もあり、コマールさんがこの写真を説明しながら、「日本はわれわれから、ホテルを奪いました。しかし日本は、素晴らしいものを与えてくれました。ユミコさんー」と言う、のろけを何度も何度も聞いた。賀集さんは「また始まった」という顔で、しかし、まんざらでもなさそうに笑っていた。
ダイニングテーブルのパーティションの向こうには、コマールさんが休む用のマットレスがあり、そのマットレスにも、使い古されて肌触りの良いバティックが掛かっていた。
ダイニングの奥が台所、そして家の外が、ガレージを改装した工房。工房の上の2階部分が「離れ」となる。後に、賀集さんは離れに商品を移し、家の中は完全にプライベート空間として、お客様は離れに通していた。離れは、チレボンでの私の常宿であり、賀集さんが亡くなった場所でもある。
私は2021年11月から再びチレボンへ行き始めたのだが、スタジオ・パチェがあれよあれよという間に変わっていくのに呆然とした。チレボンのご遺族の最初の計画では、スタジオ・パチェは「スタジオ・パチェ食堂」として生まれ変わり、賀集さんの作品を展示するギャラリー的な場所も設ける、という話だったのだが、この食堂の話が消えた。そして、あっという間に、家は賃貸に出されることになり、賀集さんの物はほぼ全て、家から運び出された。
賀集さんの痕跡が残っている間に、もっとちゃんとスタジオ・パチェを記録するべきだった、と後悔している。特に、作家リンドグレーンの住んでいた部屋が一般開放されておりバーチャル訪問もできると知り、その素晴らしいバーチャル・ツアーを体験してから、「スタジオ・パチェもデジタル・アーカイブとして残す手立てはなかっただろうか」と後悔と共に考える。
これまでにざっと撮った「変わりゆくスタジオ・パチェ」の写真は、一部、親しい友人たちにシェアした。私だけで専有すべき物でもないし、ほかにも見たい方はいるはず、と考え、「写真ギャラリー」にまとめることにした。写真の中で、非常にプライベートなものや離れの写真は外してある。
今後は古い写真も発掘し、皆様のご協力も得て「写真ギャラリー」を拡充していけたら、そして最終的には「スタジオ・パチェ」がバーチャルにでも訪ねられる場所になれたら、と願う。