運命のサカナ柄 アフリカの「私の家」へ [100枚のバティック(36)]

運命のサカナ柄 アフリカの「私の家」へ [100枚のバティック(36)]

インドネシアからアフリカ・チュニジアへの転勤の決まった安藤彩子さんがインドラマユで出会った「運命のサカナ柄」バティック。「早速バティックを飾りましたので、自慢させてください!」とチュニジアの新居の写真が送られて来ました。その写真があまりにも格好良かったので、サカナ柄バティックとの出会いについて、寄稿をお願いしました。「100枚のバティック〜一枚の布にまつわるストーリー」、安藤さんの物語です。

ベッドに掛けてあるのは、アアットさんの草木染めショール
ベッドに掛けてあるのは、安藤さんが初めて購入したバティック。インドラマユのアアットさん手描きの草木染めショール

文と写真・安藤彩子

 チュニジアへの転勤の正式な辞令が出た後、最初の週末となる2024年8月3日、+62編集長の池田さんと友人と共に、インドラマユ、チレボンを目指した。インドネシアを離れる前にどうしてもインドラマユのバティック工房に行きたい……その願いに池田さんが快く同行を承諾してくれた。 

 ジャカルタに来て3年8カ月余り、実は本格的にバティックに魅せられたのは、最後の1年間だけだった。今思えば、どうしてもっと早くバティックの魅力に気付かなかったのだろうと悔やまれるが、残された時間がある程度決まっていたからこそ、一気にのめり込んだのかもしれない。

 1年弱の間に、インドラマユにあるバティック工房Bintang Arutの工房主エディさんとは、大使館バティックの新色・新柄の制作や、「バティック手ぬぐい」の制作をお願いし、時には無理難題を押し付けてエディさんを困らせたりもした。インドネシアを離れ、遠いアフリカの地に転勤が決まった今、簡単には訪れられなくなってしまうインドラマユに行き、何としても直接エディさんにお礼を伝えたかった。

 むわっとした湿気が立ち込め、せわしなく人々が行き交う朝のガンビル駅。出会いと別れが交錯する旅情に満ち溢れたこの光景も、これで見納めかと思うと胸が熱くなる。快適な一等車の、冷房が効きすぎて肌寒い車内、車窓を流れていくジャカルタ近郊のバラック、そしてジャワ島の豊かな田園風景、全てが愛おしく感じる。

 インドラマユの駅のジャティバランには、池田さんが手配してくれた車が待っていた。+62チャップ体験ツアーで訪れ賑やかだった前回とは異なり、小さな乗用車に揺られて静かに、懐かしいインドラマユの街へと向かう田舎道をぼーっと眺める。名物のマンゴーの季節ももうすぐだろう。街路樹にはこれから色付いていくであろう青いマンゴーがたくさんぶら下がっている。インドラマユのシンボル、マンゴーのモニュメントを過ぎれば、ほどなく車は見慣れたエディさんの工房のある路地に差し掛かる。

 今回の旅の第一目的はエディさんに会うことではあったが、もうひとつの目的が、バティック職人のアアットさんに会うことだ。彼女は日本人バティック作家の賀集由美子さんの友人でもあり、賀集さんと共にたくさんの作品を作った敏腕職人で、私が初めて購入したバティック布もアアットさんの作品だった。

 実は、彼女には、手ぬぐいに手描きバティックを施して欲しいと依頼しており、何カ月も待たされたあげく「やっぱり無理です」と断られた経緯がある。「手描きバティックで手ぬぐいを作りたい!」という強い思いがあったこともあり、この返事は大いに落胆させるものであったが、普段はメートル級の布に絵付けしている彼女にとって、いわば「手のひらサイズ」の手ぬぐいは勝手があまりにも違うはず、致し方ないと自分を納得させていた。

 ところがインドネシアを離れることが決まった後、突然アアットさんから蝋描き中の手ぬぐいの写真が送られてきた。繊細な彼女の描写方法が「手のひらサイズ」に忠実に表現されていて、写真を見ただけで鳥肌が立った。最後の最後に夢を叶えてくれたアアットさんにも、ひとめ会ってお礼が言いたかった。

 エディさんの工房からほど近い場所に、アアットさんの家はあった。笑顔で私たちを出迎えた彼女は、新鮮な海の幸を使った手料理で私たちをもてなしてくれた。

アアットさん宅での昼食。焼き魚、焼きイカ、イカの墨煮
アアットさん宅での昼食。焼き魚、焼きイカ、イカの墨煮、ご飯、サラダ

 アアットさんの家は、飾らないごく一般的な民家。緑豊かなインドラマユらしい、木々が生い茂った中庭に面した一角で、床に座って皆でアアットさんの手料理に舌鼓を打ち、続いてバティックを見せて頂く。ジャカルタに4年弱暮らしたけれど、こうしてインドネシアの「カンプン(田舎)」でインドネシア人の手料理を頂く機会は初めてだ。アアットさんの心遣いが嬉しい。

 アアットさんの作品は、繊細な筆使いならぬ「チャンティン(蝋描きに使う道具)使い」が目を見張る、素晴らしい作品ばかりだったが、今回見せて貰った作品には、自分が既に持っている彼女の草木染めの布を超えるほどピンとくるものがなかったので、悩んだ挙句購入しなかった。ここで無理に布を購入しなかったことが、後で運命的な出会いに繋がるとは、この時はあまり思っていなかった。

 アアットさんの自宅を後にし、いよいよエディさんの工房へ。毎日のようにWhatsAppでやり取りはしていても、エディさんに会うのは数カ月ぶり。充満する蝋の匂いと、蝋を温める鍋や蝋落としの鍋から立ち込める熱気に、ああ、インドラマユに戻ってきたなと実感する。

 エディさんの丸っこくて人懐っこい笑顔を見ると、堰を切ったように今まで言い足りなかった感謝の想いが溢れ出る。拙いインドネシア語を駆使して、想いをなんとか伝えられただろうか。

 エディさんとの出会いがなければ、彼からバティックの「無限大の可能性」を教えてもらわなかったら、デパートで売られる吊るしのバティックしか知らなかったら、こんなにバティックに魅了されることはなかっただろう。そういう意味で、私にとってエディさんは新たな扉を開かせてくれた恩人でもある。

 さて、チャップ体験をした懐かしい工房で新作チャップを見せて貰ったり、職人さんたちとひとしきり話した後、お店でバティック布を見せて貰うことになった。今まで購入したバティックはほぼ全て洋服に仕立てていたため、転勤まであと1カ月、もう仕立てている暇も無いので、今回布は買わないようにしようと思っていた。

 同行した友人や、池田さんが布を吟味するのを話半分で横から見ていたが、やがてエディさんが「これは今日出来たばかりなんだよ」と、奥から何やら手描きのバティックを何枚か出してきた。

 広げられた布から飛び出してきたのは、

 「サカナ、サカナ、サカナ!!!」。

 「え?!なにこれ?」

濃紺と白のサカナ柄

 それは今まで見てきたどんなバティックとも全く違う布だった。目がくりくりした大きな魚が何匹も布いっぱいに大胆に描かれている。繊細な文様の連続や、緻密な情景の描かれることが多いバティックだが、これはまるで「お絵描き」。布という海の中を、サカナ達が好き勝手に泳いでいるみたいだ。

 普通、バティックのモチーフとなる生き物や植物は、「柄」に徹するためひとつひとつの表情などは描かれない。だが、この布に描かれた魚はどの魚も表情豊かで、何やらそれぞれのセリフを喋りだしそうな勢いだ。

 趣味がダイビングで、三度の飯より魚好き(食べるより愛でる方)の自分にとって、頭を殴られたような気分。こんな自由なバティックも「あり」なんだ!!!

 エディさんの話では、この魚の絵はバティック職人ではなく、自らも漁師で魚が好きな画家が描いたという。なるほど、バティック職人ではないからこそ、伝統にとらわれない自由な発想で、布をキャンバスに思いっきり好きな魚を描いたのかもしれない。

 背景の模様は、エディさんの工房の職人が蝋描きしたという、落ち着いたインドラマユらしい文様で、それが全体をうまく落ち着かせている。まさに「インドラマユの海を泳ぐ自由なサカナたち」だ。

 たくさんの魚が描かれた1枚は黒に近い濃紺と白の2色でシンプルに染められており、その色のお陰で大胆な絵柄がギュッと凝縮されて非常にスタイリッシュ。もう1枚はマイセンの陶磁器のような繊細な青色で、真ん中に大好きなマナガツオ(インドネシア語でikan bawal putih)が大きく描かれている。ダイビングでお目にかかる機会は中々ないが、ジャカルタのスーパーの鮮魚コーナーでもお馴染みの顔だ。

マナガツオ
布の真ん中にどんとマナガツオ。うろこ、ひれ、顔のリアルなこと

 布は買わない……という決意はどこへやら、気が付いたら2枚とも握りしめていた。これは連れて行くしかない。更に帰りがけに、エディさん夫妻が「アフリカでこれを身に着けて、インドネシアを思い出して」とシックな手描きのショールをプレゼントしてくれた。

 素晴らしい布を手に入れた満足感と、エディさん夫妻、アアットさんに会えた充足感を胸に、インドラマユを離れる頃にはすっかり日が暮れ、インドラマユの町は夜の帳に包まれていた。すっかり長居をしてしまったようだ。この後、旅はチレボンへと続いたが、そのことはまた別の機会に書いてみたいと思い、ここでは割愛する。

アアットさんの手描きバティック手ぬぐい、海の魚柄
アアットさんの手描きバティック手ぬぐい、海柄

 駆け足で廻った最後のインドラマユの旅からおよそ2カ月弱。転勤先のアフリカで、ようやく新居が見つかり、インドネシアから持ってきた荷物を開梱した。家が決まったら、バティックをどこにどうやって飾ろうか、こちらに来てからずっとそんなことばかり考えていた。

 もちろんメインはあの「サカナのバティック」。実はこのバティック、104cm x 230cmとかなり大きく、柄も大柄なので中々飾るスペースを考えるのも大変。せっかくのこの柄を活かせるよう、美術館に絵画作品を飾るように、なるべくシンプルな場所に飾りたい。

サカナのバティック
サカナのバティック
サカナのバティック

 入居が決まった家の玄関入ってすぐの廊下に、かろうじてスペースを確保出来そうだった。ここなら窓もなく、光に弱いバティックがアフリカの強烈な日光に晒される心配もなくて安心だ。

 小さく畳まれて引っ越し荷物にぎゅうぎゅうと押し込まれていたバティック、アイロンをかけてあげようと布を取り出した瞬間、ふわっと蝋の匂いが立ち込めた。蝋の香りに誘われるように、あのインドラマユの工房のむせぶような湿度、チョンプロンガンの針を刺す音、路地裏を走り回る子供たちの笑い声、ジャムウ売りの呼び声、そんな光景が一気に脳裏いっぱいに広がった。思わず目頭が熱くなる。

 他で見たことのないこのバティックは、私のために作られたバティックだ。離任間近のあのタイミングで、私をバティックの道に導いてくれたあの小さな工房で、サカナが大好きな私の目の前に、突然このバティックが現れた。これを運命的と言わずしてなんと言おう。
 
 「たくさんのサカナの一枚」は予定通り玄関入ってすぐの廊下に、「マナガツオの一枚」は客間のベッドに飾った。このバティックを飾った瞬間に、「これで私の家が完成した!」と思った。インドネシアから離れ、今までのようにダイビングにはいかれなくても、海とサカナがいっぱいの私の家だ。

サカナのバティック
サカナのバティック
マナガツオのバティック
マナガツオのバティック
朝食。敷いてあるのはアアットさんのマンゴー柄手描き手ぬぐい
チュニジアでの朝食。下に敷いてあるのはアアットさんのマンゴー柄手描き手ぬぐい

安藤彩子(あんどう・あやこ)
2020年11月〜2024年9月、ジャカルタ在住。北アフリカ・チュニジアへの転勤に伴い、インドネシアを離れる。趣味はスキューバダイビングで無類の魚好き。+62のインドラマユ・チャップ体験ツアーをきっかけにバティックに魅せられ、バティック手ぬぐいの製作をライフワークにしたいと密かに考えている。

「サカナ」
バティック・ビンタン・アルット作

104cm x 230cm
2024年制作

「マナガツオ」
バティック・ビンタン・アルット作

102cm x 222cm
2024年制作

安藤さんとのインドラマユ旅行で、私が買ったバティックはこちら↓

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